野菜の花写真館 植松國雄 敬文舎

 

 

野菜の花写真館 植松國雄 敬文舎

野菜の花と昆虫のコラボが楽しい
写真のバックを消してあるので
細密画のように見やすくとても綺麗です

畑の花に昆虫が絡むところを待ち伏せした
アイディアが面白いのだけれど
望遠で狙ったためか
欲を言えば折角の写真のピントが甘くなり
浅すぎて残念です
できるならば広角でよって欲しいけれど
昆虫が寄せ付けないのだろうな〜と思いました

世界中から178種類の食材が集められていて
単なる知識の羅列でなく
それぞれに歴史的なあるいは様々な
楽しいエピソードが添えられた
博物的なエッセイのようでもあります
自作の写真といい添え書きといい
時間をかけた力作ですし
ウイットに富んだお話しが盛りだくさんです
チョット違和感を感じたのは
歴史上の人物と並んで登場した小泉進次郎でした
あいうえを順の目次が
索引を兼ねているので探すときに便利
ついでに昆虫の索引もあればいいのにね

キリマンジャロの花 冨田幹夫 星雲社

 

 

キリマンジャロの花 冨田幹夫 星雲社

著者冨田さんは瀬戸市の古い村の生まれです
子供の頃から自生の花や昆虫に惹かれて
年齢とともに遠くの野山や湿地を訪ね歩いてきた
最近ではキリマンジャロに魅せられて
愛用のカメラで撮りためた写真も多く
見事に整理されています
この本もそうした50年の歴史を振り返ったもので
自然界の植物と昆虫と郷土史に関わる
豊富な知識に基づく記録である

集中こそが解放  210815

集中こそが解放  210815
 
心頭滅却すれば火もまた涼し
とは言うものの
そこまで自在に達観できないから
凡人は静かな環境で
あるいは一つにまとまった
リズムの中に溶け込むことを好むのだ
その環境は為すべきことと
調和していることが肝心で
ながら族も
雑音を伴奏にしてしまいなら兎も角
気を逸らしてしまう二股は論外である

健常者とは之如何に  210815

健常者とは之如何に  210815
 
障がい者と呼ぶ
括りを作った社会に我々は住んでいるが
大方の人間は
自らを健常者と認識しているわけだ
それは恥ずかしい認識不足で
実は神か悪魔である思い上がりを
健常者というのであろう
 
人間が全知全能の神だとは思えないから
大抵は悪魔だということになる
それが人として目覚めるまでの
物欲に溺れた現状の人間社会だ
 

消費と生産  210815

消費と生産  210815
 
個々の状況で考えれば
部分的な消費のみで偏ったとしても
無理な矛盾をきたさないが
部分が群れて消費ばかりに
流れ込んだ状態に気付いたら
渦が起こって分離してしまい
その大きくなった部分を一つの全体として
俯瞰することになる
そこでは無限領域を垣間見て
矛盾をリアルに感じることになる筈だし
その先に真球という無限の正体を
思い描くことすらできる
創るという生産は常に過不足のない
壊すという消費を伴うことを見るだろう
無駄使いは調和した真球を歪め
摩擦界に姿形を持った存在としての
自分を確認することだろう
こうした体験の連続で意識を磨きだし
より無色透明な真球を描き出していくのだろう
茶道や弓道を通して研ぎ澄ます
紙一重の精神もここにあるのだろう
 

波  210814

 210814
 
電波に音波にオーラに〜
波は三次元時空間で
どんな動きをしているのだろうか?
螺旋なのか?
螺旋が螺旋を巻く多重螺旋なのか?
しかしこれでは空間を覆い尽くせない
海の波や布のように
二次元的な場でも無理がある
八方に広がれば波形がどんどん大きくなる筈
 
中心というゼロ点こそが無限だとすれば
次元などモノともせずに
何でも有りだとも思えてくる
無限に増幅するコロイド状だとか
無限に多様化するフラクタルだとか
中心への方向と外への方向がつながるトーラスだとかだ

波  210814

 210814
 
電波に音波にオーラに〜
波は三次元時空間で
どんな動きをしているのだろうか?
螺旋なのか?
螺旋が螺旋を巻く多重螺旋なのか?
しかしこれでは空間を覆い尽くせない
海の波や布のように
二次元的な場でも無理がある
八方に広がれば波形がどんどん大きくなる筈
 
中心というゼロ点こそが無限だとすれば
次元などモノともせずに
何でも有りだとも思えてくる
無限に増幅するコロイド状だとか
無限に多様化するフラクタルだとか
中心への方向と外への方向がつながるトーラスだとかだ