唯物論という一神教 160123
相対性原理の時空間において
資本主義は唯物論にすらおさまらず
架空の金融という墓穴にハマって
身勝手な権利と所有による競争原理の中で
生産を依存搾取に頼り
食物連鎖とすみ分けという自然界の連鎖をはみ出して
お互いを食い尽くしたところで自滅するだろう
資本主義的唯物論は大量の無駄を孕む
物質的富を捏造すると同時に
部分観に取り憑かれるあまりに全体を見失い
信頼関係や調和の喜びを危険視して
競争原理がもたらす不安恐怖によって
お互いを搾取し合った結果
富の集中の周りに果てしない極度の貧困を作り出す
この自虐的痛手の体験によって得た
個々の個性を尊重する対等性という気付きをもって
過不足のない生産と富の再分配をすることで
不安恐怖を脱して信頼を取り戻し
調和の喜びを満喫できることを知る
それこそが民主主義による自在性を基本とする
共産性社会主義の姿となる筈であった
しかし現実は利己的な物欲による競争原理の苦しみを
体験しないままに封建的暴力社会が
似非共同体による権利と義務と責任を契約という法になすりつけ
王権以上の支配体制を民衆に押し付けてきた
資本主義も共産主義も精神性を無視した唯物という点で
同じ穴のムジナである
相対性原理のこの世に必要なのは
似て非なる部分同士が対等に自在に共存している姿である
したがって個々の部分に自律性による多様性を受け入れる
実体を持った摩擦界の関係による切磋琢磨の体験で
部分と全体から成る今という自らの環境を知り
未来を創造していくことこそが人生なのだと思えるのである