民主主義ってなんだ?
高橋源一郎XSEALDs
河出書房新社初めの半分はSEALDsってなんだ?と言うことで
立ち上がりから今に至る過程の話で
第二部が本命の《民主主義って何だ?》となる
言葉の定義に始まり70年安保の経験者である先生である高橋さんから
叩き台が提示され学生である奥田愛基(あき)さんと牛田悦正(よしまさ)さんと
柴田万奈(まな)が参加してそれぞれの生い立ちから自己紹介となって
民主主義についての思いを語り討論へと向う
鶴見俊輔と
小田実が言い出しっぺの
ベ平連を立ち上げ社会運動を始める
議会制民主主義という西欧風のデモクラシーに対して
一歩前に進んだ
直接民主主義の実践的運動として
組織立たない出入り自在で全員が対等観を持つ環境へと民主主義を解放した行った
シールズはそれを引き継ぐ意識で輪郭の定かでない運動を目指していると言えるだろう
ギリシャのデモクラシーは全員参加の
直接民主主義で
紀元前500年頃につくられた
デモス=民衆クラスト=権力・政治体制つまり民衆性=people's power
アメリカの
憲法の基礎のなったのはインディアンのイロコイ族の政治体制だと言われているし
それがヨーロッパに渡って
憲法の土台となった
しかしフランスの革命では民衆が先頭に立ったけれども
ロベスピエールなどに結果を持って行かれ民主主義は建前となっり
恐怖政治に取って代わられたとなり
アメリカの政治システムは大統領の立場が
君主制で上院が貴族制で下院が民主性という
三つを合わせた共和制となる
ちなみに下院の力が一番弱いということになる
本気の民主主義ならば下院だけで事足りることになる
この本では語られていないが
民主主義は信仰とか法や契約という暴力への依存心からなる
嘘と秘密による煽動に揺るがない
自分で選択できる自律を目指すシナヤカな個意識と広い視野によって
利己的な利害の矛盾を卒業して
全体観を持った人々で構成されていなければ不可能だということになるだろう
民主主義に答えはなく無限の成長がある
人の数だけあるいは人の成長とTPOに合わせて無限の可能性がある
平等と自由と友愛と平和という建前では人権も民主主義を貫けない
直接民主主義の要は個性という部分をつなげることを可能にするそれぞれの
全体観である集合意識を感じ取れる心だろうか!
コレさえ身に付ければ出合ってお互いを選択して違うお互いだからこそ
切磋琢磨しながら学び合える関係を創れるだろう
多数決で負けた惨めさなどあり得ないシナヤカなコミュニケーションで
お互いを認め合い再分配して補い合える相乗効果を納得できるはずだ
そこにはテレパシーという情報交換の方法も実用化されているはずだ
追記:
平等と対等:
あなたとわたしが選び合って集うと
二人の好みも状態も違うから選ぶ物も違い
この違いを受け入れ視野を拡げることができる一方で
否定して内にこもることも可能だ
この二人が違いを受け入れ支配関係を嫌い
民主的な関係を創造しようとした場合
同じグラスを並べてジュースを同じ高さに分け合って
満足する平等感がお互いにわかりやすくて
採用されるかもしれない
しかしあなたは喉が渇いていてジュースをもっと欲しくて
私はむせていて飴の方が欲しかったとすれば
ジュースは一口で十分かもしれない
どちらも中途半端で満たされずにいるよりも
お互いの状態をわきまえて程よく満たし合うことの方が
より幸せなのでないだろうか
民主主義がお互いの心を過不足なく満たし合う
自らの幸せを求めるものであるならば
部分的な平等よりもより全体的な対等な関係を
目指すことになるのだと思う
同じように相手の違いを考慮しない部分感の強い
気ままな自由勝手よりも
俯瞰した視野の広い全体観を併せ持つしなやかな
自在性を好むのではないだろうか
更に友愛という情にまみれたプライドよりも
相手を自分の一部とできるドライな仲間とする関係の方が
好ましいだろうし
この世にあり得ない一体感という無味無臭の
100%の平和をナイモノネダリするよりも
活気にあふれ個性と個性をつなげて流れをつくる
調和というダンスを模索する五分五分の冒険を操る方が
充実していて愉しいのでないだろうか
民主主義が絶対君主に依存したら
よしんば君主が民を思う善良なものであったとしても
民主と違うものになってしまう
民主であるためにはあくまでも未知なる今を歩もうとする
一人ひとりの自律を自ら育てる自主的な意識を持った
環境でなければならない
それは体験から得る倫理観として個々に蓄積されて行くもので
与えられたり依存するモノであってはならない
そこにはお互いの切磋琢磨で裏打ちされている
現状を愉しもうとする意志が必要となる
あなたとわたしという関係:
個と個が対等に集う民主主義には
自己責任と自己管理が付きものだ
個々のフリーダムとコモンの間には
自ずとコミュニケーションという橋がなければ
つながらない溝がある
集いから嘘と秘密を排除するには人工的で
自然観を無視した競争原理による
過去に対する權利と利権の主張と
未来に対する契約という仮想の所有システムを
集いの場に持ち込まないこと
過去は万民万物に解放されたものであり
未来は個々それぞれの範疇に属するものであり
今現在を目指すものは
集うものの調和の関係にある
無限に入れ子となった連なりである
より部分とより全体の連鎖において
部分性は視野が狭くより即物的で具体性に富み
全体性はより視野が広く意識的で抽象性に富む
知識と意識:
外からの情報をコピペした状態を知識と呼び学問すると言い
自らの生活を冒険することで得る発見を意識と呼び学びと言う
更に借り物の知識を咀嚼することで得るヒラメキも学びと呼ぼう
そしてその学びの延長線上に思いを描くことを創造と呼ぼう
私達が選び合ったあなたと私は相対の関係となり
私の知らないあなたという情報から無限にある筈の
未知なる部分の一部分を拾い取り
自分の意識と照らし合わせながら噛み砕き繋ぎ合わせ
新たな意識を育んでいく
この一瞬一瞬を繰り返すことで視野を広げ
自分という部分と共にその全体となる環境をふくらませていく
部分と全体とは意識を通して繋がる
磨き上げた個意識は全体である集合意識からヒラメキとなって
個意識へとフィードバックされ循環し続けながら
私という個である部分も私を取り巻く環境である全体も
無限に成長して行くということなのだろう