神道」の虚像と実像 井上寛司 講談社

 

神道はその昔中国から輸入した言葉であって

「じんどう」とか「しんどう」と発音されていたのが

当時のヤシロ・ミャ・モリ・ホコラなどの縄文アミニズムから

天皇支配の古代律令制度による神社となることとならんで

天武天皇の名において民衆の心を一つに結ぶため

古事記が作られ日本書紀を独立国として諸外国に顕した

それ以後神道は「しんとう」と名を改めて

仏教儒教と絡みながら

明治維新までの国家を支える使命をもつことになった

 

正確を期すならば神社は7世紀後半に天皇による中央政府により

官舎と呼ばれて全国を治める神殿を持った宗教施設である

しかしヤマト政権によってこの神社に先立つこと7世紀の初めに

伊勢神宮鹿島神宮や出雲神宮などが成立している

更には地域の豪族によるカミ祭りがあり

これらの全てを統一しようとしたのが官舎としての神社であるが

それには時間がかかったということである

 

日本列島は一世紀ごろから階級社会の発生が起こり

三世紀の邪馬台国で国家としての組織が形をなしていく

更に古墳時代を通して国家形成が推し進められた

その当時

中国大陸の随や唐の成熟した帝国が周辺の東アジアに影響を及ぼしていた

日本も律=刑法と令=行政法を中国から導入するに伴い

中国の皇帝と異なる天皇を導入したのである

 

従って天皇という称号は天武から始まるもので

それ以前の推古天皇などは「推古大王」と区別して呼ばなければならない

皇帝が律令制度の頂点にあるのに対して

天皇律令制を超越する存在として位置づけられていた

天皇は法に権威を与える現人神という立場にあり

行政権に司法権に祭祀権を統括するものとして日本の統一を図り

ある意味傀儡である象徴としての天皇を置くことで

中国の唐と肩を並べる体制を目論んだ

このために国内に士農工商穢多非人的な支配体制の仕組を浸透させ

その他中国を除く近隣諸国を野蛮な地域として蔑んだのである

 

儒教道教仏教のうち儒教は宗教としてではなく

役人層の教養あるいは民衆の道徳として導入され儒学として重視された

具象的な力関係を生み出す現世中心の儒教道教を超えた

抽象的で壮大な宇宙観による仏教のみが組織の安定に利用され

体系的に律令政治と関わることになる

ここで日本独自の存在として仏教の壮大な教義と絡めながら神仏習合を描き

地域の豪族をテリトリー内に引き込むために現されたのが神社組織なのだ

国譲りを盛り込んだ歴史を洗脳することで事実を有耶無耶にして隠蔽することに

成功したと言えるのだろう

 

五斗米道 太平道

 

インド中国日本という三国世界観からなる神国日本は

11世紀末の最澄による顕密仏教によって再編成され

天神七代地神五代人王の神武以下歴代天皇という歴史観に改められた

更にはキリスト教という一神教を持ち込んだヨーロッパ文明との出合いが

三国世界観を破壊して神儒仏一致による鎖国制度の中で緒宗教と幕藩体制

結びつきが強化され儒学を盛り込んだ神道へと変化していく

そんな中でも吉田兼倶の力に揺らぐことはなかった

 

明治になって宗教という言葉が翻訳語として生まれ進化論の伝来と共に

宗教と科学の対立が起こり宗教は合理性に富んだ倫理や哲学という学問の

下積みに追いやられる

政府の見解では神仏分離と言い「神社は国家の宗祀であり宗教でない」と言うが

国民は依然として信仰対象としていたこともあって無宗教的な融通無碍な多神教

呈しているのも強権的な国家神道推進によってもたらされたという

 

日清日露戦争がもたらしたイデオロギー

日本は先進資本主義列強の仲間入りを果たしアジアで唯一の植民地を持つ

帝国国家となりその教育制度によって国家神道も影響を受けて

国家による保護が弱まり経営が成り立たなくなる

そこで神社は国の主張である「神社は国家の宗祀であり宗教でない」を逆手に取り

民衆の拠り所である立場を捨てて国家による保護を主張したのである

天皇の意向による日清日露で生まれた膨大な戦死者を公的に鎮魂するために

陸軍省が中心となる靖国神社の前身である東京招魂社に合祀されることになった

靖国神社への改名と共に天皇の命令で死んだ者を英霊たちの偉業を讃える場とし

植民地獲得を目指す帝国主義の戦争を美化し正当化して国民を追い込む機関として

重要な役割を担ったって来たのである

一般から召集されて死んだ兵隊が眠る国立千鳥ケ淵戦没者墓苑をさておいて

戦争を運営してきた戦犯を祀る靖国神社を日本軍国主義の象徴だとする所以である

 

国家神道の変質

鎖国というモンロー主義とも言えそうな状態から豹変して侵略国家となった日本は

実にご都合主義で視野の狭いが故の利己的に陥ったバカな存在だといえるだろう

しかも国民もろともに世界中を巻き込む盲目的地獄を作り出すという

罪を犯したことを負の体験として深く反省し積極的に世界に呼びかけ

調和の道を模索しなければならない立場にある筈である

国家権力の被害者であった国民が結果的に加害者に追い立てられてしまうという

愚かで理不尽な体験を有効にして未来を創造しなければ

生命体として産まれた意味を成さず犬死を繰り返すだけとなってしまうのである

 

侵略とは物質的なモノに限らずその前提として主体である個々の心を

個々の選択を支えるための手段でしかないはずの組織体がひるがえって

主たる個々を侵略するという二重構造であることを理解する必要がある

それは主たる自らを維持する自主性を放棄した個々に問題があるのであって

自主性を持ち得ない道具や手段に責任を添加しても解決どころか

空回りのナンセンスで始まらないのである