三万年の死の教え  中沢新一  角川

三万年の死の教え  中沢新一  角川
 
人生の目的の一つはこの世の真実とも言える
大自然の真理を知ることである
死の前に悟り解脱できることは稀でしかないけれど
煩悩から意識が離れる死の瞬間に自分の本心に気付き
輪廻を終了するチャンスを得る強い可能性を持つ
コレを逃すと更なる輪廻によって摩擦界を繰り返すか
地獄の体験をすることになるという
 
ここで疑問が湧き出す
もしもクリヤーして解脱に成功したその先の意識はどうなるのか
真理を卒業して終着駅である無に帰すのか
極楽という調和の世界に昇格してナマヌルイ日向水に軟禁されるのか
はたまた先を目指すのか
実態のない無限に終点が在るはずものく
どうやら肝心の所で尻り切れトンボのようでもある
又相対界の他に地獄や極楽という別の階層が在るとも思えない
すべては相対界の変化の中に在るのではないのか
 
それでも面白い発見もいくつかある
心を根城とする静寂な意識も頭脳に紛れ込むと
憤怒な現象界に翻弄されることなるらしいということだ?
本来の意識は善悪から離れた信頼故に謙虚であって
相対間の距離を取る必要があるため手を出して干渉することを
避けているだけではないのだろうかと思えるのだが?
 
相対的なこの世はイリュージョンに過ぎないのに
死というライバルだけは確かなもので
これに勝てるかどうかが意味を持つ唯一の実態であるともいう
医学もゲリラ戦のように対立することなく
共生しながら棲み分けていく調節の役目を果たすものである
それは陰陽であり生命現象におけるダンスのパートナーである
 
悪の体験を手段として善と呼ばれる真理を理解することを
目的としているのがこの世の存在理由である
 
優しくアザトイ光に騙されずに
自分の本心からなる強く率直な光を見つけ出せと言う
 
経を紆余曲折に解釈しそれが一人歩きして蔓延し
源を忘れてしまうことを避けるために
まがりなりにも文字を使って
いつでも戻れる原本という固定されたホームベースとして
書き留めたのが《経》である
 
その経の解釈も手段から目的として取り憑かれて
物質化したモノが多くあり
心理に近いと思われるモノは少ない
意識は知識による部分感の体感から学ぶことで
全体感を成長させることができる
したがって善悪感はむしろ大事な作用であって
否定するには当たらない
 
つまり死を知ることで生命の意味を知る
この本はおもに死者の書=バルド・トドゥルについての話である
バルドとは中間・途中という意味で
永遠にプロセスである無限性のことを示し
トドゥルは「耳で聞いて解脱する」ことを意味する
死に向かう時五感の内で最後まで残るのが聴覚で
死んだ後もしばしの間魂とこの世はつながっているという
 
死を前にして下世話なこの世のシガラミから解放された時
最後に大きな解脱のチャンスが来る
 
西洋ではチャネリングによって書かれたチベット密教だと言われる
内容のものを神智学を通して広がり二度のブームを作ってきた
最初は1930年代に降ろされたモノの出版時であり
二度目はベトナム戦争後のヒッピー時代にもたらされた
 
中沢さんはこの翻訳に伴う《誤訳》が大事な役割を生み出すという
この場合も誤訳の効能によって西洋思想に受け入れられ
ピチピチとした新しい解釈がシガラミのない解放された所で生まれた
 
言語は存在そのもので「無意識は言語として構造化されている」
という構造主義が常識になっている西洋文明に対して
この世の現実は《言語の外》にあるという主張が魅力となったのだ