ヒトかサルかと問われても  西江雅之 読売新聞

ヒトかサルかと問われても  西江雅之 読売新聞
 
努力と行きずりという違いを除いて
西江さんが選ぶ人生や考え方は私と生き写しのように思える
生まれ付き社会性にうとく
成長するいしたがって社会性という唯物的な考え方に
体験から理解した具体性が加わり
自ら後ろ向きになって描いているオママゴトの安全地帯に
取り憑かれて真面目に自作自演しているという
狂言のような他人ごとの滑稽さを感じてならない
 
逆に自分を客観的に見すぎて
虚無的ですらあると感じることさえあるが
カガミを通して全てが相対関係にあるこの世の有り様を見ると
常に動いている相手との距離感を如何に素早く
計り取り続けられるかということが
満たされた人生をつくるコツだと思うし
全てを調和の関係で踊らせて幸福な関係をつくりながら
相乗効果を発揮させて集合意識を成長させることを
可能にしてする様にも思えてくるのだ
 
人間もそろそろ蓄えた形式という硬い縦社会の唯物体験を抱えて
自在で対等な自然界の懐に戻ってもいい頃ではないだろうか
この硬いものとシナヤカなものが手をつなぐ時に起こる
飛躍的な相乗効果を死ぬ前に実感として見てみたいものだと思う
 
彼曰く
正義とか平和を政治業者の言う政策から考え起こすことが苦手だ
信じがたいものばかりなので議論することすら興味を持てない
サルトル実存主義に追従しているわけではないが
社会の中の個人というテーマの重なることが多い
抵抗から超越に更に実存に至るリチャード・ライト
卒論の題材にした
 
人に出会い助けられることで命をつなぐ
他人なしに人生を生きられないが
しかしたった一人で過ごす砂漠で恐ろしいのは人間の気配だ
頼れるのも恐れの対象であるのも人間だ
そんな中で東京での環境が途方もなく巨大な生け簀suに見えてくる
補償とその代償として目に見えな飼い主に弄ばれている
 
 
彼と違い私にはこの続きを発見したいという意欲がある
それは所詮唯物的縄張りでしかない組織優先の社会は
大なり小なり生け簀でしかないと言う体験を経て
その知性による分離を乗り越え
より確かな意識による共生関係を見つけ出すということである
大自然による生命に課せられた永遠に課題が
この心満たされる冒険と発見で見えてくる喜びであるような
気がしてならない