お茶とミサ  ピーター・ミルワード PHP

お茶とミサ  ピーター・ミルワード PHP
 
興味を持って読み始めたが
結果的には語るに落ちるという感想しか残らなかった
神を盾とした宗教的思い込みと矛盾だらけだ
優越的で勝手な依存心と思い上がりによる干渉
 
この著者はニホンの茶の湯スコットランドにおける
午後のお茶とイエズス会のミサに共通性を見出し
それを人為的な関係だとして根拠を捏造していく
 
利休はイエズス会のミサにヒントを得て
茶の湯を編み出したのではないかと
戦国時代のニホンと西欧に思いを馳せ
具体的な妄想に酔いしれ実体化してしまう
 
こうした思いはお茶会で見た袱紗捌きに端を発したという
しかし利休は過去に執着する宗教から離れて
自然界の無限性と相対する循環する大きな流れに
永遠の答えを求めていたように思えるし
イエズス会は依存による搾取の言い訳を真理とすり替えて
布教という暴力的干渉で人々を誘惑することを
目的としているように見えるのだが・・・
 
利休は消して形式を残そうとしなかったし
それどころか形にできない意識上の姿勢を
大事にしたのであって
形式化したのは後に茶の湯を宗教化して時の権力と結託した
流派の仕業であろう
 
丁度人間イエスを利用したローマの権力とキリスト教会の
関係と同じであろうか
 
この著者は心からの言葉をここに綴っただけなのだろうか?
それとも無垢な人々を洗脳する意図を持って
書き起こしなのだろうか?