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◎苦は反面教師として必要悪なのか 170314

◎苦は反面教師として必要悪なのか 170314
 
もしこの世が相対する摩擦によって気付きを得
真理の悟りに向かう場であるならば
それが他力によるものであれ自力によるものであれ
暴力が一掃された社会に悟りへの道は残されているのだろうか?
 
そそのかされて対立する戦争がない世界を創造できたとして
人はどうやって調和の瞬間に気付けるのだろうか?
人々がテレパシーで集えるようになると
依存心の波に誘惑されることもなくなり
嘘や秘密が二度と現れなくなるのだろうか?
そこでは相対性がどう表現されるのだろうか?
 
社会全体が一成る環境に近づくということは
その部分である個々の人間がどう相対し合うのだろうか?
切磋琢磨する相手と薄くなった摩擦の中で
空回りせずに心を満たすことができるのだろうか?
有限的な現象界には無限性の抽象的な潜象環境が内包されるのか?
それとも
現象界に潜象環境が隙間なく浸透して満ちているのだろうか?
 
もし苦が一掃されて良いものならば
ナゼ今現在暴力的で理不尽なイジメや戦争が
あるいは明らかに無意味な飽くなき欲望が末期的な状況にも関わらず
続いているのだろうか?
必要のないものならば現存していることが不思議である
 
つまり相対性時空間において苦は必要悪なのだと思えてくるのだが
それにしても極端にバランスを壊し
具象性が限度を超えていると思えるのはナゼなのだろうか?
自滅という振り出しに戻ることがどうしても必要なのだろうか?
 
相対する摩擦の関係が競争し合う対立へ向かうか?
あるいは切磋琢磨する調和を目指すか?
ここに新たに発生する対立と向き合う相手は
又々調和を選んだモノとなりながら抽象性を深めていくことになる
 
そして円を描くこともなく
コチラ側でも振り子のバランス点があり
頂点で揺り返されるということか?
更には振り子の揺れが小さく早くなり
全体観につながる抽象度を上げて表面化してくる
 
こうした迷いこそ井の中ん蛙のタワゴトなのだろうか?
こんな基本的なことすらハッキリと見えないとは情けないことである