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脳はなぜ心を作ったのか 前野隆司 筑摩書房

脳はなぜ心を作ったのか 前野隆司 筑摩書房
 
心を物理的な理屈で解明できたというので読んでみた
心は知・情・意と記憶の学習と意識から成るとして
記憶の学習には宣言的記憶と非宣言的記憶があり
宣言的には体験によるエピソード的な記憶と
一般的な意味からなる記憶があるという
ここから意識を除けばロボットでも扱える物理的な範疇であると
残った意識と無意識
意識には覚醒していると言う意味と
事物に注意を向けることと私という自分を認識するという感覚
一般的に意識は知情意と記憶の学習を
主観的に統合する作用としているが
前野さんが発見した論理はこの一般論と違うと言う
 
又無意識は抑圧されて意識に上らない心の働きとか
深く考えることなく惰性による行動や選択のこと
心と脳の関係・・・
 
さて物理的な縄張りにこもった学問で大丈夫だろうか
意思決定をするにはそれ以前に目的がなければならない
人間に限らず生き物は目的に沿って判断しているはずだから
当然その決定に至るプロセスがあるはず
(前野さんは生命に目的があると認めていないかもしれないが)
想念を一方的な意識と勘違いして心と読んでいるように思える
 
今のところコンピューターやロボットにない意識も
知情意と同じようにいずれ具体化されると言い
二元論者を全近代的だと主張する前野さんが言う
私には体と「私」と《私》の三つの私があるとし
「私」は意識だとする
〜その意識は想念のことでないのだろうか?〜
更に自己意識だという別の《私》を個人的な主体だという
〜これは体験から得た知識とは別のことでしょうか?〜
 
どこで線引するのかわからないけれども
喜怒哀楽や身体や外界に対しての実感を《私》自身の言う意味で
クオリア(質)と命名しているらしい
〜これは所有につながる情感のことだろうか?〜
 
前野さんの言う「私」は受動的で主体的で無いとして
心の地動説を解くが
〜全道説を唱えるべきで無いのか?〜
全体と部分は連鎖している入れ子のようなものではないのか?
どこを切ってもその部分は全体を写し取ったホログラフィーであり
部分的な受け身と全体的な主体性の両方を持っていると思えるのだが
 
どうも物理一辺倒の論理は相対性を飛び越えて
唯一無二の答えを求める一神論者に通じる依存心があるようの思える
前野さんは消去法で意識の錯覚説を導いているけれども
五感である視覚のクオリアも自己を感じる意識のクオリア
同じように眼や心にクオリアがあるかのように
形而上のことも形而下も錯覚するように作られているのだと
考えざるをえないのだと結論づけているが飛躍していないだろうか
〜作ったのは誰でどこでそれを感じているのか?〜
元の木阿弥に落ち込んでいないだろうか
 
わかっていないモノを消去法で残ったのが答えだとすることの危険
わからないモノは時が準備するまで焦らずに思いを転がしながら
そのままの状態で大事に棚上げして待つべきなのだ
 
本文の184ページ以降には同感できる部分も多いが
全ての根源には集合意識とつながる個々の意識の解放が
関わっているのだろう
それなしでは飛んで火に入る夏の虫で
自殺行為でしか無い視野の狭い強欲から抜け出せない
そのためにも環境を含めた自分のすべてを俯瞰し
視野を広くして過去に依存し所有欲による競争原理の縄張りから脱し
今現在を選択する冒険を目指せるだけの意識に
目覚めなければならないだろう
 
そして依存心と恐怖からなるお願い信心を卒業して
自律を目指すことの喜びに満ちたお互いに対等で自在な
愛と美の意識に気付いて行くことだろう
それは相対する部分観と全体観が補い合う個々の連鎖によって
成されるに違いない