◎この世は何故有限界なのか 160204

◎この世は何故有限界なのか 160204
 
そもそも最初から有限という条件を負わされたこの世は
相対性時空間という摩擦界となって縄張りを構成する
部分と全体の入れ子構造で成り立っている
 
だとするとこの多様な有限と相対するのは無限以外にない
無限とは一成る絶対の存在である故に対象物を持てず
姿形のない完全球体の非の打ち所のない存在であろう
それはある意味寂しい話であって無に等しい
在って無い物質でもないから言葉という物で表現し切れない
あえて言うなら混沌なる意識であろうか
 
この無限に対する有限とは無限の真逆に位置する存在である
結局無限も一なる存在を保てず相対を夢見ているのだろうか
つまり有限は不完全に歪んでいることで部分性を確保し
姿形を現し摩擦を起こす重力場の一員としてこの世を形成しながらも
限りなく無限に連なる入れ子状態という矛盾をはらんでいる
 
二極によるパラドキシカルなこの世は出合った相手に自分を映すという
具体的状況の中で五感によって自分の表側だけを知ることになる
左右反転させながらもお互いを鏡として確認することを可能にする
ここで忘れたならないのは裏の半面に気付くには多様な相手を選び続け
視野を広げなければできないということである
 
この世は見えない聞こえない喋れない嗅げない触れない感じない
果てしのない絶対の無限を限られた五感で表現してみせる場であり
それを実行する生命体はお互いの出合いを選択するという
今その瞬間を体験し続けることによって切磋琢磨しながら
互いの個意識を成長させ集合させることで全体としての無限を
描き出し続けて行くという壮大なロマンを秘めているのでないだろうか
この無限から有限を産む冒険と発見の旅を
愉しむのも苦しむのも個々に委ねられた選択なのだろう
有限あっての無限であり
無限を目指すことで存在意義を持つ有限なのである
 
冒険の旅は現場調達を基本とし過不足のない必要最低限の荷物に限る
脇見をしたり落し穴に落ちて方向を見失い立ち止まってしまうと
先のない不安恐怖を自らわきたて過去から抜け出せない状態に陥る
自分という意識を大事にしていないと知識を持った肉体が独り歩きしだし
全体観によるお互いの信頼や調和の関係を質に入れて
相手の未来までも先取りしようと分裂し
所有欲という権利意識の底なし沼にハマり込んでいくことになる